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もしかして三国志 Part8
今日も、ネタがないので課題を一個ずつ片づけていきましょうかw

えー、今回は郭嘉さんですね^^ 字は奉孝。
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周喩なんかと同じで早死にの代名詞的な印象がありますw
三国志大戦でもSRなんかめっちゃ病人ですからね^^;
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それでも周喩は赤壁という大きな舞台と歴史的な勝利という勲章を得たため、かなり有名です。
しかし、郭嘉さんは、赤壁の前年に風土病でお亡くなりになられたということで、大きな戦いは官渡あたりの袁家討伐とその後の烏丸賊との戦いくらいでしょうか?
(この辺はみゆうさんのところのリンクから跳んだ三国志人物wikiに書いてありましたw)

個人的なイメージで言うと、当時魏の2大軍師としては、荀、郭嘉。

荀が内政や大局的な展望に優れていたとすると、郭嘉は(もちろん大局感はあったでしょうが)軍略や奇策(ひらめき?)に秀でていたのではないでしょうか・・・

荀が清として策を奮い、郭嘉が濁として汚れ仕事や汚い策(それ故に有用で必要)を進んで奮う・・・
そんな感じがします^^

さて、今回はこの郭嘉さんを救う訳ですが。
赤壁敗退後に曹操が「奉孝ありせば・・・」と呟いたとされる郭嘉さんです^^
ならば、そこまでご存命だったことにしましょう。
すると当然南征に同行していたでしょう・・・清濁併せのんでそうな郭嘉さんが陣営にいたならば、まずホウ統やらカン沢の策は見破っていた可能性があります。
そもそも曹操も疑ってたんですけどね、呉軍に潜り込んでた蔡和、蔡中あたりの言葉を信じてしまったんですよね^^;
郭嘉さんがいたら、その辺をしっかりと忠言していたかも知れません。
そうすると、連環や埋伏の毒は機能しなかったかも・・・

しかし、東南の風は吹いたでしょうし、魏軍の船酔いや疫病は治まらなかったでしょう。
火計の威力は若干落ちたかもしれませんが、大勢としての勝敗は変わらなかったと思います。
しかし、本来の赤壁程のダメージは受けなかったでしょうから、呉から退却することは免れなかったかも知れませんが、荊州は守り切れたかも知れません。
そうすると、劉備は荊州という地盤を得ることが出来なかったことになります。
(まあ、諸葛亮がいてあの勇将達がいれば南部4郡は奪れたでしょう)
劉備は史実の半分の領土しか得ることは出来ず、蜀を攻め取るまでには時間がかかり、常に荊州の北の曹軍を気にし続けなければなりません。

呉に至っても、総出で防御して追い払ったのに何も得ることが出来ないことになります。
ある意味、呉蜀の絆は対魏で強くなるかもしれませんね^^
しかし、壊滅的な打撃を免れた曹操なら、荀、郭嘉と共に直ぐに態勢を立て直し、早い時期に次の遠征を行えた可能性が高いです。

郭嘉を先陣の軍師につけ自分は今度は都、もしくは後詰めとして進軍すれば国としてもっとも大きな領土を持ち国力最大だった魏は、今度こそ荊州から呉への侵攻を成功させていたかも知れません。

三国志状態は誕生せず、南北戦争にすらならず、魏の統一国家が誕生していたかもしれませんね^^



そんな結末の三国志・・・読んでみたいとおもいませんか?

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[ 2006/11/20 23:17 ]

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