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もしかして三国志Part9
ネタ今日も今日とてネタがないので一応、最後の宿題となっていたもしかして三国志をお届けしたいと思います^^
最後の宿題は順平侯さんからの課題で
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法正さんですね。字は孝直
もともとは益州の劉璋に仕えてましたが、後に劉備の臣下になります。

法正さんに関しては実はよく知らないんですよね・・・w
光輝三国志だと、劉備の入蜀の際に孟達、張松らと劉璋を裏切って(一応国を思ってのことですよ^^;多分・・・)劉備を手引きします。

その後は定軍山で夏侯淵と戦った際にはその軍略で黄忠や厳顔に献策し夏侯淵を打ち破るという場面があります。光輝だとそれだけですし、他の小説とか読んでもあんまりクローズアップされないので・・・

なんで、wikiの人物紹介の方から引用しまくって紹介しますね^^

前述のとおり法正さんは劉璋に仕えてました。有能だったんですが献策は劉璋にほとんど用いられなかったようです。後になって、法正は自分を用いない劉璋では蜀の地(益州)を守り切るのは難しいと考え、張松らと共に劉備の入蜀を計画し攻略に協力しました。

劉備の勝利後は、劉備の腹心として多くの献策を行い、この時の官職は諸葛亮よりも上位のものであったそうです(びっくりw)。

劉備の傍らには常に法正さんがいて、諸葛亮は劉備の遠征時などに後方の統治や補給を担当していたようです。

定軍山の戦いでは効果的な献策を行ない、黄忠によって夏侯淵を討ち取らせます。私が知っている中で一番の見せ場ですね^^でも光輝だと裏では諸葛亮が献策してた・・・みたいになってるんですけどね^^; 

劉備が漢中王に就いた翌年に45歳で病死したそうです。劉備は法正の死を大層嘆き、自ら法正に翼侯との諡を与えました。
劉備が与えた諡号は後にも先にもこれだけだそうです。まあ、劉備存命中はあまり主要人物は死にませんでしたから(関羽や張飛は別ですよw義弟達にそんな号は送りたくないでしょうし、黄忠さん死んだあたりはそれどころじゃなかったでしょうしね・・・)。

夷陵の戦いで劉備が大敗した時、この報を聞いた諸葛亮は「法正がおれば、主上(劉備)の東征を止められただろう、もし東征を行なったとしても今以上の危険と損害は最低限は避けられていただろう…」と優れた軍略を持っていた法正の死を嘆いたそうです。

また、呉に大敗した劉備も(夷陵の戦い)の敗戦後、「法正が生きておれば…」と嘆いたと言うから驚きです4/8伏兵、挑発は伊達ではありません^^

さて・・・前置きが長くなりましたね^^;・・・じゃあ法正さんの病を治してみましょう。

漢中王になった翌年ですか・・・蜀の全盛ですね。五虎将揃い踏みで孔明・法正がいて漢中から蜀一帯を領土にして鷂州ではまだ関羽がその地を治めてました。

関羽が呉に敗れるのは荊州と漢中の2面作戦で魏を攻める作戦を実行中の時でした。
もし、この時法正が生きていて、前述の通り重用されていたとするならば・・・法正か孔明が荊州に赴き、軍師として従軍していたんではないでしょうか?可能性としては劉備と共に漢中からの軍に法正が同行し、孔明は成都で補給の指揮等の後方支援というのも高いと思いますけど・・

仮に優秀な軍師が1人関羽の負担を和らげていたならば、呉に遅れを取ることはなく、取ったとしても関羽が討ち死にすることはなかったと思います。両面作戦は失敗して鷂州を失ったとしても五虎将は欠けることはなかったのではないでしょうか?

関羽さえ元気なら張飛も死なないし、無理な出征で黄忠が死ぬこともなかったはずです。人材さえ残っていれば、まだまだ三国時代は続いたでしょう。

仮に関羽の死を止められなかった場合、劉備を止められればまた変わっていたでしょうし、止められずにいても一方的な大敗はなかったかもしれませんね。
しかし、それでは歴史の流れを大きく変えるまでには至らないでしょうね・・・関羽が死んでしまった以上張飛は収まらないでしょうし、張飛の激情溢れた陳情は結局いずれは劉備を出征に決断させたはずです。大敗を抑えたとしても失意の劉備が病になることは避けられないでしょうし、蜀としての命数は延びるでしょうが・・・結局は史実に沿った結末になったと思います。

関羽の死を止める!!

法正がそれを出来たとしたら・・・

歴史は蜀に傾いていたと思います。



そんな結末の三国志・・・読んでみたいと思いませんか?
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[ 2006/12/05 23:36 ]

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